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第152段:これも順番? |
90歳の男性から「先生、順番が狂うのじゃないかと心配しました。」とぽつりと言われ驚きました。
「どうしたのですか?」と問うと
「孫の嫁が脳腫瘍で手術になりました。幸い早期に発見されたらしく命には別状なさそうなので安心しましたが・・・、私のような老人が脳腫瘍にでもなればそろそろあの世に行けていいのですが、若い孫の嫁ではあまりにかわいそうです。一時はなんとか自分と代わられないものかと悩みました。年齢の順番に死なないとみんなの都合が悪いですからね。私も何時までも生きているとみんなの迷惑になりますね。」
80歳を過ぎるとボケ症状のない方々からしばしばこのような、「順番を狂わしてはいけない。」とか
「年の順に死ぬのが当たり前、子供が親を追いぬいたりしてはいけないね」という言葉が聞かれます。
「死ぬことは怖いのですが、死を若い時ほど怖いと感じにくくなった。」などという言葉を聞きます。
訪問診療先などでごく自然にこんな言葉が聞かれます。
不思議な気がしています。
仏教のお釈迦様の教えの中にも「順番が狂うことがあるのが当たり前でその苦しみを乗り越えることが大切なのだ」というような教えがあるようです。
この当たりを救うのが宗教の仕事の一つのような気もします。
思い出してみると敬老の日が近づいたり、平均余命が発表されたりすると「まだまだ生きなくてはいけないのですか?」とか
「平均ならあと20年も生きるのですか? いい加減にしてほしい」などと言われる方が少なくないのも事実です。
本心からかどうかは不明ですが、生きることへの執着が弱くなっているのかなとちょっとばかり心配しています。
家族を看取っていても「この年ならもういいでしょう?」、
「これ以上生かしても苦しみを与えつづけるだけですから」というような声がよく出るようになりました。
医師である私にも同様の考えがあります。
一族郎党の順番が守れているのなら、病気や体の衰弱の状態を考えたとき「常に積極的に延命治療を!」という風にご家族を説得することには消極的です。
昭和44年に私の祖父の最後に立ち会った父は「医師として死にゆく人に無駄な治療をすることは、去りゆく人に石を投げつけるようなものだ、最後の最後まで人を傷つけるようなことをすることは医師の良心が許さない」と私に話してくれました。
「だから最後は何もしないで診ていたよ。それが父のやり方であり、自分のやり方でもあった。お前も医師として仕事をするならきっとそうすると信じている」と付け加えてくれました。
(ちょっと脱線ごめんなさい。)