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心にうつりゆくそぞろごと
「心にうつりゆくそぞろごとを、そこはかとなく書きまぎらわしたるもの」を紹介しようと思い立ちました。
徒然草のごとく「日くらし硯に向かう」ほど暇ではありませんが、「心にうつりゆくよしなしごと」よいうか「そぞろごと」は、いくつも現れてきます。医学書を作るよりもこの方が人間味のある文になるのではないかと思います。
しばらくは「私の心にうつりゆくそぞろごと」とおつき合い下さい・・・

  第273段:「命」診限るべからず  

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「アーッ、やっぱり年を越えられんかったねえ」夫の死亡を私に告げられた妻の発した言葉でした。死亡日時は12月31日午後8時過ぎでした。暑い8月のある日の昼下がり、急速に衰弱してきた夫の往診の依頼があり訪問してみると、とてもあと3ヶ月は持ちそうにないと感じられたのですが、「奥さん、年は越えられそうにないですね」と少し長めに予想を1回だけお話してあったからです。その後、秋の涼しさにも助けられたのか予想ほどには衰弱が進まず、年末になって「ひょっとすると」と、私も家族も考えていたようでしたが、やはり無理でした。「先生の診立てどおりで、やっぱり年を越えることはできんかった。ひょっとすると外れるかもしれんと思うとったのに」
「えっ、あのときの言葉をはっきりと意識しておられたのだっ」と私は恐れ入りました。
病状が悪化すると患者さんの家族からは「あとどのくらい持つのでしょうか?」としばしば聞かれます。以前は「あと一ヶ月ぐらいですね」とか「3ヶ月ぐらいじゃないかと思います」と当てずっぽうの答えをしていましたが、結構当たるものでそれなりに診立てが当たるものだと勝手に思っていました。
あるとき大学の先輩と話をしていたら「あと5年は大丈夫」と説明しておいた患者さんが「あと5年しか生きられない」と誤解して診察に来るたびに「あと5年といわれて1年たったからあと4年ですね」というように毎回計算しながら通院されていて5年目で亡くなってしまったと聞かされました。「ご遺体を解剖させていただいたけど、どこにも死に至るような病変は見当たらなかった。5年という日を区切って理解されて、その日が過ぎたら燃え尽きてしまったようだ」という話を聞かされました。
あと何日、あと何ヶ月と月日を区切ることで本人も周囲の人もタイムセットをしてしまい、その日時に合わせようとする意識が無意識のうちに働くのではないか、あるいはそれを否定しようとして逆にその日時を意識し始めるのはないかという思いに達した私は、それ以来「どのくらいも持ちそうですか?」と聞かれると、「私にはわかりません。易者さんでも見てもらったらどうですか」と答えることにしています。なおも食い下がられるとタイムセットされてしまうことを話して答えることをお断りします。
「今週がやまだ」とか、「ここ一両日が限界」というふうに聞かされて、何度となく病床を訪れ、これが最後と思いながら、死んで欲しくないという気持ちや、やがて来る日に備えての心構えとか、死後の段取りなどと様々な心配事が駆け巡り身も心も疲れ果ててしまう姿のほうが痛々しく見えてしまいます。
 「あと半年と主治医から言われたのに、あれから1年半、元気じゃないけど生きている、診立ては外れるもんですねえ」というような話もしばしば聞かされます。
医者の診立ても結構外れるものです。あと何日、あと何ヶ月と自分勝手に命を見限らず、病床の上でも笑いながら毎日を過ごすことのほうが大切なような気がします。
12月31日に夫を亡くされた奥さんは子に先立たれ、夫に先立たれ、その後、孫にも先立たれて夫の死後18年目に91歳のときに私が死亡診断書を書きました。もちろんあと何ヶ月の診立てはしませんでした。患者さんの命を見限るようなことは出来ませんからねえ。

「いわみ談話室」から

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