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心にうつりゆくそぞろごと
「心にうつりゆくそぞろごとを、そこはかとなく書きまぎらわしたるもの」を紹介しようと思い立ちました。
徒然草のごとく「日くらし硯に向かう」ほど暇ではありませんが、「心にうつりゆくよしなしごと」よいうか「そぞろごと」は、いくつも現れてきます。医学書を作るよりもこの方が人間味のある文になるのではないかと思います。
しばらくは「私の心にうつりゆくそぞろごと」とおつき合い下さい・・・

  第286段:「私の道のり」  

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「もう、これ以上の治療は止めてください」とお願いして私は家族のいる場所に戻りました。
父の手術後の状況説明で常用量をはるかに超えた量の薬で生命を維持していることを主治医に告げられ、とっさにそう答えてしまいました。
そのことを妻である母や私の兄や姉に告げ、私は「もう苦しめたくない」と言いました。

積極的な治療の回路が閉じられていく父のベッドと傍に付き添う母の姿を部屋の片隅で見ながら、父の心電図モニターの音や画面の心電図波形を時々確かめながら十数年前の祖父の死んだ日のことを思い出していました。

高校二年生だった私が授業中に担任の先生から呼び出され、「おじいさんが亡くなられたから、すぐに帰宅しなさい」と告げられ荷物をまとめて下校をしました。
数ヶ月前から自宅で寝込んでいて、そう長くは持たないとわかっていた祖父の死でしたから、私自身にはたいした驚きもなく来るべきものが来たという感じでした。

自宅に帰ると祖母と母とが体を清めていました。
父が「ちょっとおいで」と私に声をかけ隣室で祖父の最後の様子を話してくれました。

「もうどんな名医が見ても助からない状態だったから何もしなかった。注射をしたり痛い目にあわせたり、苦しめることは何も意味がないのだ。この世から離れていく人に石を投げつけるような馬鹿なことはするものじゃない。医師として自然に安らかに逝かせてあげることが大切なのだ」と医師である父が私に終末期の医療の心構えを話し始めました。

そのときの会話や状況を思い出してボーっとしている間に父の心電図のモニターの音が途切れ、画面の波形が真横に一直線の線を引いてしまっていました。

改めて父の六十一年の生涯が閉じたことを確認しながら「治療中断したことは間違っていなかったよな」と何度も心の中で繰り返していました。

祖父の死んだ日に十六歳の私に話しかける父の言葉は印象的でした。
祖父も医師でしたから父の考えも「死んでいった祖父からの教え」があったのだということも理解できました。
無駄な治療はする必要がない、助からないとわかった命を一分でも一秒でも延ばすことは治療ではないと話してくれた父の言葉や姿が忘れられず、自分も医師になる前からそのようなスタイルの医師を目指していました。

父の死の直後から小さな診療所を継いで開業医となった私に、自宅での臨終を希望している患者さんが待ち構えていました。

往診に伺い、「今度は息子の私がお付き合いします」と声をかけると八十歳を越えた患者さんから、「私が代わって死んであげればよかったねえ、お父さんに最後を診てもらうのだと信じていましたから・・・、今度は大丈夫だね。宜しく頼みますよ」と言葉が返ってきました。
お話をしてみると「積極的な延命治療は不要だし、自宅で何もしなくてもいいですよ」と本人も家族も自然な死を望んでおられることがわかりました。

父や祖父のスタイルというより我が家の江戸時代からの医業の流れの中でのスタイルが尊厳死尊重型の医療であったのであろうと想像することは難しくありませんでした。

数年前、日本尊厳死協会の松根さんと出会い、二つ返事で尊厳死受容医師となり、その後の入会へと繋がりました。
私にとっては自然な流れでした。

祖父の死から四十年を経過した私の道のりです。
今、私の診療所には入会案内のポスターと書類が置かれています。


日本尊厳死協会
中国地方支部の会報「リビング・ウイル」掲載

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