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第304段:「病気診ずして病人診よ」 |
「当機は、ただ今からフェアバンクス国際空港に緊急着陸します。
着陸に際して余分な燃料を機外に放出して・・・」との機長のアナウンスを聞きながら、私は患者さんの脈を診ていました。
米国の南東部、ジョージア州アトランタから成田空港への飛行の途中のことでした。
離陸してから数時間後に機内で高齢の日本人女性の気分が悪くなり吐血されました。
診察をしてみると状態は比較的安定していますし、このままの状態が保てればあと10時間ほどの飛行が可能ではないかと判断しました。
患者さんはご夫婦で米国内の子どもさんやお孫さんのお宅を訪問されての帰りで、ご主人もほとんど英語は話せません。
初回の吐血のときに直ぐに着陸して病院へとも考えましたが、言葉の事情や家庭の状況を聞いてみると、できればこのまま日本まで飛んで到着後に病院へと考えたからでした。
患者さんは自分で歩け、会話もでき、痛みもほとんどないので安静を保つように指示して経過をみることにしました。
ところが機内クルーの看護師からの2度目の吐血との連絡で状況が変わりました。
再度診察してみると吐血に加えて下血もあり状態は悪化していました。
機長は米国内の医療センターとの交信で緊急着陸が適切との指示を受けており、私もそれに同意しました。
アラスカ州の北極圏に近い人口3万人ほどのフェアバンクスの町の空港へと決定がされました。
着陸後、救急隊員が機内に入りわれわれと情報交換し、現地の病院での日本語での対応も可能ということで一安心、患者さんとご主人は一緒に飛行機を降りることになりました。
別れ際に「これで治療がちゃんと受けられますから安心してくださいね」という私の言葉に不安そうな表情でしたが、小さくうなずかれました。
ご主人にも「きっと大丈夫ですよ」と声をかけ私の仕事は一応終わりました。
ご夫婦を見送った後に私の頭の中に浮かんだ言葉は「病気を診ずして病人を診よ」でした。
病気を診ることに一所懸命で、病気になった人間を診ているという考え方を忘れてはならない、つまり、病気を治すためという理由で、人間の尊厳を犠牲にするようなことがあってはならないという意味です。
離陸までの給油と機体の整備のわずかな時間の間に、空港職員の許しを得てボーディングブリッジの横のドアを開けて外に出ました。
夕暮れ近くの美しいアラスカの景色が目に入ってきました。
手すりに寄りかかり、少し冷たい風に吹かれながら思いをめぐらせていました。
「少し病人に重きを置きすぎて、病気を軽視して飛行を続けさせた判断は適切だったのか?途中のバンクーバーに降りた方が適切では?」などと、様々な思いが交錯しましたが、私が病気よりも病人の方に重きを置いていた証しだったと確認しました。
今度はこの美しい景色を楽しむためにこの地を訪れてみたいと感じた時、この日の仕事が本当に終わったような気がして私は機内に戻りました。
『いわみ談話室』より