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第308段:「医療廃棄物」 |
「先生、その口の中を見るときに使うヘラみたいな棒も使い捨てですか」と足元の汚物入れに投げこんだ舌圧子(ぜつあつし)を見ながら、患者さんからの質問です。
最近は私の診療所でも口の中や喉の診察のときに使用する医療器具は使い捨てになってしまいました。
銀色に輝く消毒済みの金属の冷たい器具が机の上にまとめておいてあり、使用した後は消毒液の中につけてリサイクルというスタイルは消えてしまいました。
私の子供時代の昭和三十年代には父の診察室の隅っこのテーブルの上にある電熱器の上に載せられた煮沸消毒器での消毒でした。
その日に使う注射器や針、消毒した注射器を保管する金属の箱などを毎朝消毒して、同時に消毒したピンセットなどを使ってきちんと並べそれから仕事が始まっていたような記憶があります。
往診に出かける時にはこれまた往診用の注射器の注射器や針のケースを消毒したものを鞄に詰めて、オートバイにまたがって出かけていっていた姿を思い出します。
もちろん注射器はガラス製で何度も消毒して使っていましたし、注射針も同様でしたが、注射針の切れ味が悪くなると父や祖父は自分で砥石を使って研ぎ、時にはメスを研いで下さる職人さんが来られると針などもまとめて研いでもらっていたようでした。
医療器具の精度や安全性は現在と比べると桁違いに悪かったといわざるをえません。
ある日、小さな診察室には煮沸消毒器ではなく高圧蒸気滅菌器と呼ばれる器械が置かれるようになりました。
「これで、安心して消毒・滅菌が出来るようになった」とうれしそうな顔をして父が話してくれた時の顔は今でも覚えています。
当時は煮沸消毒器では完全に病原菌が消毒できないことはわかっていましたが、小さな診療所では消毒する器具の量も少なく大型の高価な機械は買えない時代のようでしたが、やっと小型の器械が発売されて使えるようになったようでした。
今の時代のように、何でも消毒、抗菌グッズが氾濫している状況から考えれば信じられないような医療行為が当たり前でした。
予防接種の針は交換しないでアルコールを含ませた綿の上で軽く拭くだけ、同じ注射器、同じ針で次々に予防接種をされた記憶があります。
当時診察机のそばにはクレゾールの消毒液の入った洗面器があり、時々その洗面器で手を洗い、そばにかけてあるタオルで手を拭いていましたが、いつの間にかタオルがなくなり、ペーパータオルになり、やがて洗面器もなくなり、すりこみ式の消毒薬だけになってしまいました。
ここ数年の「もったいない」とか「リサイクル」あるいは「エコ」の時代に逆行するように医療の世界は過剰と思えるほどの消毒と滅菌そして器具の使い捨て時代になりました。
ピンセットや綿棒、診察ベッドの紙のシーツも使い捨てです。
ガーゼや包帯もリサイクルする手間と安全面を合わせて考えるとむしろ使い捨てた方が合理的という計算です。
診察室や処置室で滅菌された医療器具が袋から取り出されてわずかの時間だけ使用されてゴミ箱や汚物入れに捨てられてゆきます。
貴重な石油資源から作られる注射器や様々なプラスチック製の医療器具、使用後は全て安全のために資格のある廃棄物処理業者を通じての焼却処分となります。
「人の命は地球より重たいからなあ」と思いながら医療廃棄物の箱を眺めています。
『いわみ談話室』より