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心にうつりゆくそぞろごと
「心にうつりゆくそぞろごとを、そこはかとなく書きまぎらわしたるもの」を紹介しようと思い立ちました。
徒然草のごとく「日くらし硯に向かう」ほど暇ではありませんが、「心にうつりゆくよしなしごと」よいうか「そぞろごと」は、いくつも現れてきます。医学書を作るよりもこの方が人間味のある文になるのではないかと思います。
しばらくは「私の心にうつりゆくそぞろごと」とおつき合い下さい・・・

  第55段:どんな死に方をしますか  

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第51段で日本人の死因について書きました。
死に方にはいろいろありますが
「がんは痛そうでいやだ」
「ぼけるのは迷惑を掛けるから避けたい」
「突然死ぬのでは最後のお別れが出来ないから困る」
などといろいろ意見があるようです。

「がんなら人生の後始末をしてみんなに最後のお別れをして死ねるから良いでしょう。麻薬で痛みのコントロールをしてしまえば、あとは死の恐怖との戦いですが・・・」
(私の父はがんで死亡しましたが、葬式に使用する写真まで指定して死にました。)
人生の後始末の大半は済ませていましたが、死の恐怖からは逃れることが出来なかったようです。
今にして思えば精神的なケアを十分にしなければならなっかったのでしょう。
私に対しての最後の言葉は「苦しい・・・楽にしてくれ」でした。
(酸素マスクの中からの小さな声でした。)

その後の診療の中で死の恐怖を乗り越えたと思われる患者さんに何度か巡り会いました。
「先生死ぬことが怖いと思わなくなったよ」と話された前立腺癌末期の患者さん。
「十分していただきました。もうこれ以上私を生かしておくことで、私を苦しめないで下さい。治療は終わりにして下さい。」と話され1時間後になくなられた患者さん私の評価が甘いのか? 雑な経過観察か? 過大な評価か? ここを読んで様々なお考えがあるでしょうが、最後は眠るように安らかでした。
「がんで死ぬのも悪くない」と考える理由がここにあります。

ぼけて死ぬのもいいですね。
だって死の恐怖を理解できない状態ですから。
他人に迷惑を掛けているなんて、あとで正気に戻ったら大変な騒ぎですがそんなことがないのが痴呆です。
酒によってグデングデンになってなんにも覚えていない状態であちこち騒ぎ回っている状態と同じように見えます。
その場その場はちゃんと思考しているようでも実際はめちゃくちゃですね。
あの状態ですから家族にごめんなさいといえるわけがないですよ。
死の恐怖がなくなるという点では「ぼけてしまうのはいいですね」もちろん介護される家族の方々や周囲の方々の労力が大変なことは十分承知しています。
(我が家にもかつて痴呆症の家族がいました。)
でもあえて書きました。

突然死んでしまうのもいいかもしれません。
自分自身がとんでもない状態になると気が動転して正確に状態を把握できない内に死んでしまいます。
すごい怪我でも怪我した瞬間よりも病院で治療を受けてからのほうが痛みを強く感じませんか?
発熱したときでも熱を計って予想以上に発熱していたらつらいのがひどくなった経験はありませんか?
家族には最後のお別れが出来ませんが、本当に死ぬまで手を握っていてもらえますか?最後の時は集中治療室の中だったり(家族は外に出さされていたりして)朝気付いたら、亡くなっていたりとかいうこともしばしばです。
「みんなに見守られて息絶えるというのはそう多くないのではないですか?」
突然訪れる死は、みんなに迷惑ですが、本人には状況が理解できないままというのも悪くないかもしれません。

人間一度は死にますが、その方法は選ぶことが出来ません(自殺を除きます)。
私はどんな死に方をしたいかを考えても無駄だと考えています。
曹洞宗の禅僧「良寛」は江戸時代の三条大震災のときに書いた見舞い状に
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候う、死ぬ時節には死ぬがよく候う、是はこれ災難をのがるる妙法にて候う」
と書いています。

あなたはどうお考えですか?

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